昭和44年02月06日 朝の御理解
御理解 第85節
「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。」
これは妊産婦に対する御理解ですけれども、私共が日々おかげを頂かせてもろうて、そしていわゆる良いものを生み為さして貰うとね、良いおかげを生みなさして頂くという、良いおかげを生み為さしていくと言う事には、この妊産婦に下さってあるこの85節をそのまま、生活の上に表していきましたら、それこそおかげはね、歯を食いしばらなくても、又はよかり物によからなくて、いわば人に頼るとか物に頼ると言った様なよかり物というか、もたれ物とここに書いてますね。
もたれる。人によたれもたれする事なしにです、しかも頂いたそのおかげに五香いらずと仰るようにね。頂いたつのおかげも本当に自然の中に、しかも母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし、頂いたおかげによって又おかげを落とす様な事もない、不浄毒断ちなし。平日のとおり。もう普通のとおり、何もない時の平穏無事のとおりのそういうおかげを頂きながら、昨日の朝の御理解ですね、いわゆる恵まれ続ける生活。
恵まれ続けれる生活を頂かせて頂くためにね、私はここの妊産婦に対するところの、本当にここの85節のこのようなおかげが受けられたら、妊産婦も苦痛のね、生みの苦しみなんて言うけれども、楽しいことのようですね、つわりもなければ腹も痛まず、しかも産前産後のことも、また生みなされてからその後も子供の虫気と言った様なもなからなければ、産後に例えば食べ物なんかでもあれは食べちゃいかんこれは食べにゃいかんとかと言う言を申しますけれども、そういう不浄、毒断ちなし平日の通りと。
ところが実際問題としては、さあ妊娠をするつわりがある、吐く様々ないわゆる十月十日の苦しみというものが実際はあるんです、けれどもそこんところをですね、これは本当に信心が分からしてもろうて、昨日の朝の御理解のように、もう何と申しましょうかね、素直に素直に物を見、素直に素直に聞けれるおかげを頂かしてもろうたら、こういうおかげが、いわゆる私は受けられることを信じます。
私の例えば家内なんかも、長男それから長女が生まれる頃は非常にお産が重かったんです。だんだん本人も信心が分かるようになり、おかげを頂くようになったら、もう確かにまあこのようなすっきりとまではいかんけれども、産みの苦しみなんていうものは全然感じずにおかげを頂いておりますですね。
もう本当に生まれる、その1時間か30分前ぐらいまで、それこそきりきりと御用を頂いております。そこにはもう、全ての点に恵まれながら恵まれた、言わば安産のおかげを頂いております。これは例えば妊娠、そして出産と言う事においてもそうでありますが、それを私共の生活の上に、良いものが生みなされてくる、良いおかげが生まれてくる。良いおかげを頂かせて頂くためにもです、そう歯を食いしばらなくても済む様な事が心の中から頂かれます。けどもそこまでになるまで信心が大事。
やっぱりよたれもたれしたりね、人に頼ったり物に頼ったり、または例えば腹帯をしてみたり、いわゆる普通の人に産みの苦しみと言う様にやっぱり十月十日の苦しみというものを味わいながらおかげを受けておるというのが普通一般の信者さん方の姿じゃなかろうかとこう思うですね。だからそれはもう過程において仕方がないけれども、願うところはです、そういうおかげの頂けれる私は信心を願わにゃいかんと思うです。
例えば金銭のことであろうが、人間関係のどのようなことでも、どのような場合でもです、血の道、虫気なし、不浄、毒断ちなし、平日のとおりと。もう当たり前のごとして、たんたんとして、それがしかも恵まれ続けて、それがしかも豊かに大きく恵まれていけれるという道、金光大神の。だからそこんところを素直に見ると、素直に聞くと聞けれるということがね、私が昨日申しますように、只あの人は素直な人じゃと普通で言うその素直さじゃないて。
例えば素直に見る素直に聞くと言う事は、そう言う事じゃない、例えばならこの85節を聞かせて頂いてもです、はあ本当に信心ができたらそうであろうと。そんなわけにはいかんやっぱ腹帯はせにゃいかん。やっぱそれこそ生まれたならばちゃんと何十日間は寝とかなにゃいかん。教祖様はそう仰るけれども、やはりこの御教えのように現れておるようにです、隣知らずの安産のおかげを頂けないようなことを思う。ここで例えば御教えなら御教えを、言うならば、言うなら疑うて聞くわけです。
素直さがないから、この辺のところをひとつ、馬鹿ほどの素直さと、底の抜けた素直さというものを信心によって培うていかなければならないと言う事。私今朝方お夢を、お夢とも御心眼ともつかん、福岡の高橋定利さんですね、毎朝参って来ます。高橋さんがね、黒眼鏡をかけておられる。まあ言うならそうですね、こう座頭さんがはめるような眼鏡。また言うならば遊び人ふうの人達がこう黒眼鏡をかけてますでしょう。
ああ言う様な眼鏡をかけておられるお知らせを頂いて、どう言う事だろうかと私は思うてね、今朝の御祈念にそのことをお願いさして頂きよりましたら、座頭さんがねそれこそ黒眼鏡かけた座頭さんが、長い杖を小脇にこうかかえてから手探りでこうこうやって歩きなさるところを頂く。そして分からして頂くこと、そして只今の85節を頂いて、まあそれとは縁の遠いような御理解のようにあるけれども実際はそうではない、ここのこのことであったなあというふうに分からして頂いたんです。
私は今日は何かとっても心が何というですか、晴れ晴れと豊かに、もう豊かにとにかく有り難い。今朝の御祈念を頂いた後に、それはです、それはこの私の祈りと言った様なものでなくてね、生神金光大神のお取次を頂いて、日々生活ができておると言う事が有り難いて。お取次を頂いて良い生活がさして頂きたい。ためには良いことを思わせて頂きたい、良いことをさして頂きたい。良い生活のために。
しかもその上、お取次を頂いて日々金光大神の御取次ぎを頂いて、金光大神の祈りをここに頂いて、生活ができるということは有り難い。皆ここまでは皆そう思わせますよね。日々お取次を頂いて、生活できるということは有り難いと言うけれども、本当にどこまで有り難いかということはもう限りがないのです。昨夜壮年部会、私も参加さしてもらい、私を含めて11人でした。少人数ながらもうみっとりそれこそ時間の経つのも忘れて皆さん話を聞かせてもらいました。
もう1人1人みんな素晴らしい体験を発表されました。中に、壮年会長であります、松岡さんの発表の中にこんな発表がありました。もう日々様々なことがございますと。様々なことがありますけれども、日々お取次を頂いて、なるほど毎日はお参りはしてみえませんけれども、毎日ちゃんとこうお日届けがしてあります。それでそのお日届けを、いわゆるまあ御結界を心の中に描きながら、親先生を心の中に描きながら、今日もどうぞというお取次を頂いて、まあ何日おきにか参ってみえる。
そん時にこうまとめてお取次を頂かれる、言わば日々お取次を頂いておられるわけなのである。ですから先生のお取次を頂かせて頂いてからの事でございますから、もうこの頃はもうばたばたしません、まあ言うならそう心配もいたしませんね。それで私その後にだから松岡さんもっともっとね、本当にすっきりと本当なものになってこなければいけません。確かにそうです。ここで合楽でおかげを頂いておる者は皆そうなんですね。お願いをしてからの事だからと。
所がですそうしてお取次を頂きながら、お願いをさして頂きながら高橋定利さんが黒い眼鏡をかけておられるように、高橋定利というのは、高い橋と書いてありましょう。だからこれは高度なお取次ということだと思ったんです。それがどう言う事かというと、生神金光大神の御取次ぎの働きと私は思いました、高い橋、高度の橋。御結界のことを橋と。人間の世界と神様の世界を取り結ばれるところのひとつの橋がかかっておるようなもの、だからこれは高度の、最高度の橋。
定利とは定まった利と書いてあります、おかげはここに極まったり。御取次ぎを頂いて、信心生活がいわゆる良いことをなさしてもらい良いことを思わしてもらい。良いことをさせて頂くというあり方にならせて頂けばね、そこに金光大神の御取次ぎの働きは絶対なのだ。その絶対なものの中にです、例えば息子が言うことを聞かんこともあろう、商売で反対に損をすることもあろう。家内が自分の言うことを聞かないと言う事もあろう。どうも、お商売が思わしくないと言う様な事もあろう。
けれどもお取次を頂いてのことであるから、むしろそのことに対して御礼を申し上げなきゃならん。お取次の働きがこうあっておるのであるから、子供が例えば言うことを聞かんのであるから、または商売が思わしくなかったということもお取次の働きの中にあることだから、それが例えば神様の働きとして有り難いという頂き方、これはね、もう実に素直に素直に聞き見れなければそう思えんのです。
ところがそんなら、例えばなら松岡さん、私昨日も申しましたように、それがもっともっと素晴らしいものになっていかなければならんということは、まあだ松岡さんは黒眼鏡をかけてござるということです。黒眼鏡をかけて見ておるのである。黒眼鏡をかけて事の事態というものを聞いておるのである。黒眼鏡、ね、色眼鏡で見ると言う言を申しますでしょう。事の事態をね。疑うて見るという色眼鏡をかけて見る。
それを例えばこの眼鏡をとって、もう素直にそのままの姿をそのままのおかげとして見れれるために、信心の稽古がしっかり積まれなければ出来ん事なんです、実を言うたらお取次を頂いて起きてきたことは、全てが良いお取次を頂かずして出来た事は良い事の様であっても全てが悪いとこういう。そういう見方なんです、ですから例えばんなら家庭の中に、言うなら子供が言う言を聞かんからというてですね、どうして聞かんかと言う事もいらなければです。
それを苦に病むことはない、むしろそれを言うたり、悔やんだりすることは神様に対してご無礼になる。そこに自分が色眼鏡をかけておるなあと悟らにゃいかんのです。お取次の働きはそこにですね、そういう姿で現れておるのですからそれを有り難く頂かなければいけんのです。それを色眼鏡で見るから、ああ困ったことだと言う事になる。それには神様にもご無礼になる考え方である。ですからところが私共の場合はやはりそこに色眼鏡をかけて見ますから困ったことに見えるのです。
困ったことじゃけれども、親先生にお届けをしてからの事じゃからと、まあようやく安心しとるのでしょうがね。それは有り難い事として頂いとらん、そこで私共のそれがお取次を頂いて起きたことだからと、困ったことだけれどもまあお取次の働きの中にあっておることだからというふうに頂くと言う事と同時にです、それが有り難いこととして頂けれるために私は一生懸命お参りもしなければならない、修行もしなければならないということになるのじゃないでしょうかね。
言うならばですね、私共は神様任せということは、私共は言わば障子一重がままならぬ人の身であることが分かったのですから、とても自分勝手には行かれんのだ、自分勝手にはされんのである。それこそ、座頭さんが杖を頼りに歩いていくようにいかなければいけないのですけれども、私共がその神の杖を外して小脇にかかえて、そして手探りで行こうとしておるところに問題があるのです。
いわゆる皆さんが手探りの生活ではいけない、杖の先から通うてくる、ひとつの感じというかね、信心の生き方というものが、信心させて頂く者の生き方というものをそこから感じなければいけない、神を杖につかなければいけん、またの御理解に「神を杖につけば楽じゃ」と仰る。それを神を杖につけば楽でない証拠に困ったこととして見ておる。困ったもんじゃあある。
けれどもお願いをしておることじゃから、まあその程度にしか頂いていない、私はここんところがですね、素直にそれが頂けれるようになったら大変なこと。今日は何かそれがこうすっきり頂けるような気がする、このような言うなら強烈な祈り、しかも高度なお取次の働きの中に私共日々、信心の稽古をさして頂いておるのでございますから、そのお取次の働きによってここに起きておる問題が難儀に見えておっても、それは難儀ではないと分からしてもろうて、御礼の言えれる信心。
それをまたの御理解に「あれもおかげであったこれもおかげであったとわかるようになると、真実の信者じゃ」とこう。本当とは真実の事とこう、真の信者じゃと。そういうことになる時に、この例えば85節がですたい、素直に聞ける素直に見れる。おかげを頂くところからです私は、不浄毒断ちなし。平日のとおりというようなおかげがいつの場合でも頂けるということを信じます。お願いはしとるばってん、心配になるね。そこにあなたは今、色眼鏡をかけておるんだと悟らにゃいかんです。
皆さんお願いをしてからのことじゃけんでよかがのと言いながら、やはりそのことを難儀と見ておるとするなら、まあだ薄い色眼鏡をはめておること、ね。それが有り難く見えた時に初めて、素直な目で見た、素直な耳で聞いたということになるのですよ。ですから信心で言う素直さとは違うでしょうが。あの人は生まれつき素直だというのとは違うのです、そこんところが頂けたらどんなに素晴らしいことだろうか、その素晴らしいことを目指して皆さんがおかげを頂かせて頂くその過程にです。
ですからどうぞ良いことを思わせて下さい、良いことをさせて下さい、そこの先に良い生活をさして下さるところのおかげが受けられる。良い生活とはどう言う事かね。不浄、毒断ちなし、平日のとおりと言う様なおかげになってくる、そういう私は信心生活をですね、本気でひとつ目指しての信心にならなきゃいけないと思うんですね。お取次を頂いて、お願いをしてからのことなのですから。
神様の働きを信じる力が強くなれば強くなるだけそこの事態にはどう見えておっても、それをおかげの世界として、おかげの世界に生き抜かせて貰わにゃいけません。いわゆる高度な、皆さんは日々高度なお取次を頂いておられる、金光大神の御取次ぎを頂いておられるのであるから、その御取次ぎを頂いて、いわゆる定利さん、定まった利。利ということはおかげと言う事。もう定まったおかげがそこにはっきり現れてくる。
そのおかげが自分に都合がいいか悪いかと言う様な事でです、おかげであるとかおかげでないとかという見方は素直でない見方であり、色眼鏡をつけてからの物の見方感じ方であるから、その色眼鏡をとらせて頂くための信心をさせて頂くために、ひとつ真の追求が必要になってくるのです。私は昨日、壮年部会で次々とお話を頂かせて頂く中に、繁雄さんの初めて、ようあなたそげなこと覚えておるなっちゅう様な言を聞かして頂いてから、後からね、あんたの話を聞きよると。
当に有り難くなると言うてから聞かしてもらったことなんです。もう10年も前のことだったそうです。ご大祭の後に下ではご直会でいっぱい、まあ言うならどんちゃん騒ぎやってるわけです。自分がお神酒頂かれんもんですから、2階に上がらして頂いてお爺ちゃまとおばあちゃまのおりなさる所行って、じいちゃま、お茶なっと入れましょうかっちゅうたら、ああ、ならお茶を一服頂こうかとこう言われる。
そこで茶棚からこれからしっかりきれいにまずお掃除をさして頂いて、そしてお茶を立てられた。そしたらおじいちゃん、おばあちゃんが大変喜ばれたと。そのことを明くる朝のお夢の中に頂いておられる。そしたらそん時に親先生から頂いた御理解が、そこから徳を引き出すことができると頂かれたそうです。そこから徳を引き出す事が出来る。以来、私はそういう生き方でですね、私は信心をさして頂いておりますという、私はこんな話じゃないです、もう何とも言えんお話ぶりなんですけれどもね。
言わば畑の中から、お野菜を作りながらそこから、徳を引き出すことができる。家内との問題、子供との問題、様々な問題、そこから徳を引き出すことができる、ためにはそこをいかにきれいにしなければならないか、いかにそこのところを影とひなたの心ではない、いわゆる御結界では、言わば良い信者のごとしとるけれども、2階に上がったらもう良い信心ができていないといったようなことではない。そこからね、そこから例えばお徳がひき出せれるとこう仰るのであるから。
日常生活のどこからでもお徳を頂く道はある、必ずお広前だけじゃないと言う言を以来、心にかけさして頂いておると言った様なお話でした。しかし素晴らしいことだと私それ聞きながら思うたんです。おかげでもお徳でもどっからでも引き出せるのである。ところが引き出せるところから、引き出せるところから引き出さずにです、只神様からばっかり引き出そうとしておるわけです。
そうでしょうが。神様ばっかり拝んでから、神様からばっかり引き出そうとしておるところにです、私は本当の徳にもならなければおかげにもならんのじゃなかろうかとね。おかげは神から出ると思うな。氏子の心の中から生まれ出てくるものだと四神様が仰っておられるようなものをです、しかも2階であろうが畑ん中であろうが、自分の家庭であろうがです、それは便所の中にいておっておろうがお風呂の中に入っておろうがです、そこから徳を引き出す道がある。それが私は金光大神取次の道だと思うのです。
女の方であるならばお炊事をさして頂きながら、そこからお徳を頂く道があるとですよ、そのためにです、どういうような中からでも良いことを思わしてもらい、良いことをさしてもらう。そこに良い生活の私は約束がなされる、おかげが受けられるとこう思う、ね。これも昨夜の御理解ですけれどもね、お互いが真、真というけれども、真とはどういうようなことか、。真とはね真とは神様がお喜び頂けるようなことを思わせて頂くことが真だと。どうでしょうか。
皆さん神様が喜ばれなさるようなことを思ってから、だから真で願わなければ神には通じんと仰るのですから、神様に喜んで頂くような心で願わなければいけないということです。どうでしょうか。お願いはそうにゃしよる。ばってん、神様に喜んで頂くような心で願っておるでしょうか。それでここで皆さんが合言葉のように言うですね、いよいよ限りなく美しゅうならせて、本気で限りなく美しゅうならせて頂こうと言う様な思いは神様に通う心であると同時にそれが真なんですね。
昨日熊谷さんがもう何十年も前の甘木の「神愛」という新聞。今は廃刊になっておりますけども、その新聞を持って来て頂いた、こんなフレーズじゃった。まあ親先生のあちらの親先生の教話が載っておる中に、先生の教歌がのっております。教えの歌ですね。それはこういうふうに、なら私はもう安武先生の沢山の教話の中にこの歌ほど素晴らしい、歌としての値打ちもですけれども、歌はないなあと思わせて夕べ頂いたんですけども。ここです。「正しくも世を渡らむと祈りけむ」ね。
「正しくも世を渡らむと祈りけむ。真は朝の拍手に響く」と。「真は朝の拍手に響く」とね。いわゆる「正しくも世を渡らむと祈りけむ」とね、本気で正しいあり方に、正しい人間にならして頂こうと思うて、祈られる。これが真で祈られるわけなんです。自分が良い人間になろうという思いです。そういう思いが真なんだと。だからそういう心で祈らなければ神様には通じないのだと。
心に我情我欲いっぱい汚いことをいくら心の中に、その欲望が渦巻いておってもです、そういう心で神様に願っても、本当におかげになってこない。例えばんなら本気で親孝行がしたい、そういう例えば願いが真なんです、神様が喜んで下さる。もう本気で親孝行がしたい、そういう思いが真なんだと。本気で限りなく美しゅうならしてもらおうと、そういう例えば思いが真であるならばその真で祈ることがです、おかげにならんはずはない。そういう真がです、朝の御祈念の時に、ね、真は朝の拍手に響く。
その拍手に響くと言う事は安武松太郎先生の心の中に響くだけではなくて、神様にも響いておるという深い意味合いをこの中から感じます、正しく世を渡ろうと願うその心が真、その心がいわゆるこの拍手の音に神様へ響き、自分の心に深く響いておる、真をもって祈らなければなりません。真とは神様が喜んで頂く様な事を心に一心に思うこと。それが真である。そういう真の心を持って、願う祈らなければならん、
そうしてなら85節をもう一遍、これを例えば妊産婦に対する御理解として頂いて、もちろん妊産婦に対する御理解ですから、けどもこれを日常私共の生活のですね、やはりおかげを生みなして行く事の為の一つの順序というか、受けていけれるその良いものを生みなしていくおかげを頂くために、この御教えをそのまま当てはめていってよいのです。そして願わして頂くところはです、不浄、毒断ちなし、平日の通りと言う様な日々のおかげの中にです、平日のとおり、それは素直に見、素直に聞けれる。
心に不安があり、心配があることはです、お取次を頂いてもなおかつ心配であるということはです、まあだ自分が色眼鏡をかけておるとしてです、それを外すための修行がしっかりできにゃいけません。そこから心が安らいでくる、いやむしろお礼が申し上げれる心が生まれてくる、平日のとおりである、そういうおかげ、そういう信心をお互い目指しての信心、今日は私、はあ本当にこういう素晴らしい高度なお取次ぎを頂いての日々であるから、その祈りの中に起きてくるどういう難儀な問題に見えても。
どのように自分の思うようにならなくても、その全てがです、おかげであると分からして頂いたらです、色眼鏡を取らせて頂いたら、不安もなければ心配もない、只あるものは有り難いばかり、言うならあれもおかげであるこれもおかげであると分からして頂いたような気がする。そこに真の信者じゃと仰るような真の信者にのみ許されるところの安心が喜びがここにあるわけなんです。
どうぞ。